第3章 犬にはつけてもお前にはつけない
ランティン・ジュエリー本店、1階ロビー。
帝京中のセレブが憧れる、まさに聖地だ。
佐伯薫は有川紘樹の腕に絡みつき、店員たちの視線を浴びながら、優雅に店内を流していた。
盗作でのし上がったデザイナーだろうと、雲の上に奉られる快感だけは別格——その感覚を、彼女は骨の髄まで味わっている。
ふいに、薫の足が止まった。
視線が、防弾ガラスの独立ケースにぴたりと貼りつく。
そこに鎮座していたのは、紫ダイヤのネックレス。
光を吸い、光を返す。きらめきが波のように揺れて、豪奢という言葉すら生ぬるい。
煌々とした店内照明の下でも、なお目を奪って離さない。
ランティンの看板——『オーロラ・ノワール』。
薫は息を呑み、隣の男を見上げた。声は蜜みたいに甘い。
「紘樹、このネックレス……すごく綺麗。明後日のパーティーで私がつけたら、絶対みんなの視線、独り占めできるよね」
有川紘樹は淡々と一瞥する。
悪くない。薫の雰囲気にも合う。
彼は上限なしのカードを取り出し、店長へ差し出した。
「包め」
まるでハンバーガーでも買うような口ぶりだった。
店長はカードを見て、薫を見て、笑顔を引きつらせる。
「申し訳ございません。有川社長……こちらの『オーロラ・ノワール』は、弊社社長の私蔵品でして。非売品となっております」
非売品。
薫の瞳に失望が走る。けれど次の瞬間、縋るように紘樹を見た。
「紘樹、私……本当に欲しいの」
「それに、ユナ先生の作風って私とすごく似てるでしょ? これは、私のために作られたみたい……」
その言葉に、紘樹の眉がわずかに寄った。
金で解決できないことなどない。あるとすれば、金が足りないだけ——それが彼の理念だ。
紘樹は店長を氷のような目で見下ろす。
「倍で買う」
店長の額に汗がにじむ。それでも首を振った。
「社長……金額の問題では……」
「三倍」
苛立ち混じりに遮る。
「……それでも、販売はできません」
紘樹の顔が沈む。
長年、命令が通る場所にいた男だ。拒絶に慣れていない。
細い目に冷気が差す。
「商売をしてる店が、客を追い返すのか」
「今日はこれを買う。決めた」
背後へ視線を投げる。
合図を受けたボディーガードが2人、すっとケースへ近づき、こじ開けようと手を伸ばした。
店長は青ざめ、慌てて前へ出る。
「有川社長! おやめください! それは違法です!」
薫は横で、ひそかに満足していた。
欲しいと言えば、この男は必ず手に入れてくれる——そう信じて疑わない。
そのとき。
2階階段の方から、女の声が落ちた。
「やめて」
空気が一瞬で張り詰める。
誰もが反射的に見上げた。
階段をゆっくり降りてくる、細身の影。
鮮烈な赤のスーツ。長い髪は無造作にまとめられ、すっぴんのままなのに息を呑むほど整った顔に、冷たい気配が貼りついている。
佑奈だった。
その姿を見た瞬間、紘樹の瞳が鋭く縮む。
またこいつか。どうして、どこにでもいる。
彼は反射的に薫を背に庇い、低い声で吐き捨てた。
「佑奈。俺を尾行したのか?」
佑奈は二人の前で立ち止まった。
紘樹には一瞥もくれず、展示ケースへ目を落として眉をひそめる。
「汚れた」
近くの紙を取り、ゆっくりと表面を拭う。
侮辱の意図が、あまりにも露骨だった。
紘樹の顔が、瞬く間に黒くなる。
「佑奈、聞いてるのか! 離婚したくないからって、ここまで来て騒ぐ気か? そんなに俺が必要か?」
薫も紘樹の背から顔を覗かせ、無垢なふりで言った。
「佑奈さん、誤解しないで……」
「紘樹と私はパーティーに行くだけ。何もないの。嫉妬でここを荒らさないで?」
「ここはランティンよ。あなたが騒いでいい場所じゃない」
佑奈は可笑しそうに目を上げた。瞳に温度はない。
「荒らす?」
そして淡々と告げる。
「有川紘樹、物忘れ? 言ったはず。私たち、もう離婚したでしょ」
「それに、このネックレス……」
佑奈は身を翻し、薫の作り物みたいな顔を一度だけなぞり、視線を紘樹へ戻す。
口元だけで笑って言った。
「犬にやっても、あなたにはやらない。わかった?」
店長も店員も、息を呑んだ。
有川社長を——犬扱い。
紘樹は数秒遅れて意味を理解し、嘲りを深める。
ランティンが佑奈のブランド? 馬鹿げている。
料理しか取り柄のない主婦が、世界に名を轟かせるブランドの社長? 冗談にもほどがある。
「お前のブランド?」
紘樹は鼻で笑う。
「佑奈、嘘をつくならもう少し頭を使え。ここに立てば、全部お前のものにでもなると?」
「恥を晒すな。薫に謝って、今すぐ帰れ」
「そうしないなら、容赦しない」
薫も口元を隠してくすくす笑う。
「佑奈さん、紘樹を取り戻したいのはわかるけど、ランティンの社長のふりはダメよ」
「本当の社長に聞かれたら訴えられる」
「早く紘樹に謝って。紘樹はあなたを愛してるんだから、きっと許してくれるわ」
——吐き気がした。
佑奈はもう、言葉を交わす気にもならない。
呆然としている店長を見た。
「何をぼさっとしてるの」
「警備を呼んで」
店長ははっとしてインカムを押す。
「警備! トラブルです!」
三十秒も経たず、屈強な警備員が6人、どかどかと駆け込んできた。
紘樹の顔が引きつる。
佑奈が本当に呼ぶとは思わなかった。
「佑奈……やる気か!」
佑奈は腕を組み、冷たく言い放つ。
「やるわよ。どうする?」
そして入口を指し、声を張った。
「この二人を、つまみ出して」
「それと広報へ。今日からランティン全店舗、有川グループ関係者を永久ブラックリストに」
「有川紘樹。……それから、この」
薫を一瞥する。
「浮気相手」
その四文字に、薫の顔が真っ青になり、涙が溢れた。
「紘樹……佑奈さんが、私を侮辱する……」
紘樹の怒りが沸騰する。
「佑奈!」
だが言い切る前に、警備員がぐるりと囲んだ。立場を恐れつつも、命令には逆らえない。
「有川社長、こちらへ」
「これ以上は困りますので」
大勢の前で、権勢を誇る有川紘樹が追い出される。
周囲の客は次々とスマホを取り出し始めた。
紘樹は怒りを飲み込み、これ以上の騒ぎはまずいと悟る。
明日の見出しが『有川グループ社長、本店で摘み出される』では笑えない。
去り際、紘樹は佑奈を深く睨んだ。瞳に警告と氷を宿して。
「佑奈……よくやったな」
